自分とは何か? 意識と無意識

意識は大きく分けて、顕在意識と無意識に別れることを昨日のブログでお話ししました。

 

さらに突っ込んでいくと実は無意識はさらに細分化されます。

 

無意識にも様々な階層があります。

 

よく、顕在意識と無意識を比較する時に氷山の絵を使って説明されますね。

 

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顕在意識は氷山の海から出ている部分で、無意識は氷山の海に隠れている部分という風に。

 

だいたい比率で顕在意識5〜10%で無意識が90%〜95%の割合だと言われています。

 

仏教的にはこの意識を八識として区分しています。

顕在意識に相当するのは

・眼識(げんしき)

・耳識(にしき)

・鼻識(びしき)

・舌識(ぜっしき)

・身識(しんしき)

・意識(いしき)

・末那識(まなしき)=執着する心

前の5つは五感と言われるものだと思ってもいいです。

 

そして、無意識に相当するものを阿頼耶識いいます。

全ての業が収められている蔵のことを仏教的に阿頼耶識といいます。

(業とは行いのことで、全ての過去の行いのことになります)

 

でも私がイメージしている意識の階層でいくとその比率はもっと乖離すると思います。

 

顕在意識には

願望や悩み

社会性や倫理観など

自分の口で自分のことを説明できるものが入ってきます。

 

そしてその下にある無意識には、

記憶(良い記憶も悪い記憶も)

くせ・習慣・慣れなどの無意識の行動を起こすもの

生命維持に必要な心臓や消化器官などの無意識下での活動

なんかも広い意味で入ってきます。

 

たださらにこれを掘り下げていくと実はその下には、集合無意識というものが存在します。

 

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これを最初に定義したのがカール・ユングという心理学者です。

 

ユングは「元型」アーキタイプという人間の普遍的に存在する「イメージ」のパターンについて触れています。

 

例えば土偶などのふっくらした形のものには「母親元型」のイメージが働いたり、厳しく諭してくれる賢者のイメージには「父親元型」のイメージが働いたりすることです。

 

ユングはこうしたイメージは人類の心なの中で脈々と受け継がれてきたと考えました。

 

共通したイメージが物理的な伝承伝達意外にも伝わっているということです。

 

また、これは人間ではないですが、101匹目の猿という現象もあります。

 

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宮崎県に「幸島」という島があります。

 

その島で1948年に京都大学の研究チームが一つの現象を確認しています。

 

それは餌付けされていた1匹の雌猿が砂のついたサツマイモを川の水で洗い始めたことに始まります。

 

この行動はやがて少しずつ群の中で伝わっていきある日、幸島の猿の臨界点100匹を超えた時にその出来事は起こりました。

 

今まで数年かけて少しずつ広がっていた芋洗の行動が臨界点を超えた途端に一気にテレパシーでも使ったように島全体の猿の広がるという現象がおきました。

 

私はこれは集合無意識に芋洗いの効果が働いた結果なのだろうと感じています。

 

こんな現象は各地で報告されていますし、世界の神話や伝説や芸術が遠く離れていても似通っていたりすることにも、この集合無意識の存在を明らかにするものはたくさんあります。

 

個人的には2割の集合無意識が書き換わることで全体の集合無意識に大きく影響を及ぼし、その無意識に置き換わっていくのではないかと感じています。

 

世界で起こっている出来事に対して無力感を感じることがよくありますが、地球の2割の意識が置き換わるとそんな世の中が大きく変化するきっかけを生み出すことができるのではないかと思っています。